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ひとりでも多くの患者さんのもとへ、
新薬という希望を届けるために。
経口抗がん剤

日本人の死因の第一位である、がん。現在では、日本人の2人に1人が一生のうちに何らかのがんにかかると言われている。がん細胞は増殖を繰り返して周囲に広がっていき、リンパや血流にのって全身に流れていく。手術や放射線といった局所治療では対応できないがんもあるために、世界の研究者たちが抗がん剤の研究・開発に挑み続けてきた。そして、その歴史の中には大塚グループの大鵬薬品の執念があった。

1969年、大鵬薬品の社長であった小林幸雄は当時のソビエト連邦を訪れていた。不定愁訴改善薬の商談のためである。商談を終えた一行は、そのまま日本に帰るのではなく、研究所や工場を視察させてもらうこととなった。その際、机に置かれたひとつのアンプルが、偶然にも小林の目にとまる。それは、ラトビア共和国の有機化学合成研究所がつくった抗がん剤のサンプルであった。医薬品の開発にも携わってきた小林は、研究者の簡単な説明から薬の内容や特性を理解。その薬の偉大な可能性を直感し、その場で共同研究を提案する。それが、大鵬薬品が抗がん剤の領域に進出した最初の瞬間であった。

日本帰国後の基礎研究は成功を収め、がんを縮小させる効果を確認することができた。しかし、臨床試験のステージに進むと、目の前に壁が立ちはだかる。臨床試験に必要な試験薬を大量生産する設備が共同研究先にはなかったのだ。小林は再びソビエト連邦へと飛び、当時の年間売上の10分の1にあたる金額を設備投資のために拠出することを即決する。周囲の反対意見を押し切っての決断であった。最後に責任をとるのは社長である自分。そう覚悟を決めたという。

ソビエト連邦での運命的な出会いから5年。1974年、大鵬薬品はついに注射剤とともに経口抗がん剤を発売する。これがきっかけで経口抗がん剤が薬物療法で汎用されるようになった。しかし、発売後の道のりも決して平坦ではなかった。外科手術ががん治療の中心だった当時、「がんを薬で治せるはずがない」と多くの医師から言われた。巨額の投資への疑問もたくさん聞こえてきた。しかし、大鵬薬品の中に研究をやめようとする者はいなかった。それは、この薬こそが、がん治療の常識を大きく変えるのだと誰もが信じていたからであった。

経口抗がん剤の登場は外来による治療を可能にし、入院が一般的であったがん治療に新たな道を切り拓いた。またそれは、手術と組み合わせて抗がん剤を投与する「術後補助化学療法」という新しい治療法につながった。がん治療のあり方を変える、経口抗がん剤。それを生み出した、大鵬薬品の執念。研究員ひとりひとりの情熱。ひとりでも多くのがん患者のもとへ、新薬という希望を届けるために。大塚グループの挑戦はこれからも続く。